全9巻セットの最初の本です。
実は、この第一巻に相当する内容は、ほかの文庫で読んでありましたが
全9巻を文春文庫で揃えるつもりで購入しました。
満足です。


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赤毛のアン
Audible版
– 完全版
本タイトルには付属資料・PDFが用意されています。ご購入後、デスクトップのライブラリー、またはアプリ上の「目次」でご確認ください。(アプリバージョン:Android 2.40以上、iOS 3.11以上)
美しいプリンス・エドワード島で愛されて成長していく少女アン。幸福感あふれる名作の日本初の全文訳。
訳文は、お茶会のラズベリー水とカシス酒、アンの民族衣裳、スコットランドから来たマシューの母など、モンゴメリの原作に忠実に、全文を、みずみずしく夢のある文章で訳した真実の物語。
巻末の訳註では、作中に多数引用されるシェイクスピア劇など英文学と聖書の句、スコットランド系アンとアイルランド系ダイアナなど登場人物の民俗、19世紀カナダの衣食住、キリスト教、草花とハーブをくわしく解説。
松本訳の旧訳『赤毛のアン』の訳文と訳註を、全面的に改稿した新訳!
児童書でも、少女小説でもない、大人の心豊かな文学『赤毛のアン』。
©L.M. モンゴメリ,松本 侑子 (P)2021 Audible, Inc.
- 再生時間20 時間 5 分
- 配信日(Audible)2021/12/10
- 言語日本語
- ASINB09MYBRDLK
- バージョン完全版
- フォマットオーディオブック
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登録情報
再生時間 | 20 時間 5 分 |
---|---|
著者 | L.M. モンゴメリ, 松本 侑子 |
ナレーター | 小林 さやか |
配信日(Audible.co.jp) | 2021/12/10 |
制作 | Audible Studios |
フォマット | オーディオブック |
バージョン | 完全版 |
言語 | 日本語 |
ASIN | B09MYBRDLK |
Amazon 売れ筋ランキング | - 933位Audibleオーディオブック (Audibleオーディオブックの売れ筋ランキングを見る) - 13位文学・フィクション: 歴史 - 17位世界の文学 - 47,121位文学・評論 (本) |
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2024年1月2日に日本でレビュー済み
レポート
Amazonで購入
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2023年9月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
『赤毛のアン』は、深く読んでみると、人生の全てが詰まった文学作品だと思います。
自然、愛情、青春、老衰、信仰、教養、そして死別。
この中の「教養」に関しては、本文を読んだだけでは、現代の日本人読者には分かりにくいです。
幾人ものレビューで述べられている様に、本書・松本侑子訳の魅力は、訳注および訳者あとがきによる所が大きいと思います。
『赤毛のアン』の「教養」の部分が、訳者の19年間にもわたる膨大な労力によって、余すところなく詳らかにされているからです。
勿論、訳注抜きで本文だけ読んでも、十分に楽しめますし、心の糧とすることも可能だと思います。
ですが、もう少し、時間と気持ちに余裕があれば、訳注もじっくり読んでほしいです。
本文の理解を深めるだけではありません。
訳注自体が読者を、知識と教養の世界へと誘う、一つの独立した作品の如くです。
訳者あとがきも同様に、それ自体で素晴らしい価値を持っています。
訳注も訳者あとがきも、本文との相乗効果で読んでいて、とても楽しいです。
訳者・松本侑子氏は、あとがきで『赤毛のアン』についてこう述べています。
「翻訳を通じて、シェイクスピア劇や英米詩、アーサー王伝説とケルト、聖書、キリスト教、カナダ史の書物に親しむきっかけを与えてくれた読書の良き導き手でもあります。」と。
(Kindle版P.494)
『赤毛のアン』は、生涯を通じて繙くに相応しい教養文学だと思います。
自然、愛情、青春、老衰、信仰、教養、そして死別。
この中の「教養」に関しては、本文を読んだだけでは、現代の日本人読者には分かりにくいです。
幾人ものレビューで述べられている様に、本書・松本侑子訳の魅力は、訳注および訳者あとがきによる所が大きいと思います。
『赤毛のアン』の「教養」の部分が、訳者の19年間にもわたる膨大な労力によって、余すところなく詳らかにされているからです。
勿論、訳注抜きで本文だけ読んでも、十分に楽しめますし、心の糧とすることも可能だと思います。
ですが、もう少し、時間と気持ちに余裕があれば、訳注もじっくり読んでほしいです。
本文の理解を深めるだけではありません。
訳注自体が読者を、知識と教養の世界へと誘う、一つの独立した作品の如くです。
訳者あとがきも同様に、それ自体で素晴らしい価値を持っています。
訳注も訳者あとがきも、本文との相乗効果で読んでいて、とても楽しいです。
訳者・松本侑子氏は、あとがきで『赤毛のアン』についてこう述べています。
「翻訳を通じて、シェイクスピア劇や英米詩、アーサー王伝説とケルト、聖書、キリスト教、カナダ史の書物に親しむきっかけを与えてくれた読書の良き導き手でもあります。」と。
(Kindle版P.494)
『赤毛のアン』は、生涯を通じて繙くに相応しい教養文学だと思います。
2023年10月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
赤毛のアンの飜訳は村岡花子氏訳が有名ですが、私は松本先生の訳をお勧めします。
・1908年の児童は本を買わない。赤毛のアンは最初から大人向けに書かれた本で、訳もそうあるべき。
・物語に大量の伏線が仕込まれている。松本先生訳ではそれらひとつひとつを丁寧に解説している。
・原作に出てくる「ピー」な表現も忠実に訳しています。
・1908年の児童は本を買わない。赤毛のアンは最初から大人向けに書かれた本で、訳もそうあるべき。
・物語に大量の伏線が仕込まれている。松本先生訳ではそれらひとつひとつを丁寧に解説している。
・原作に出てくる「ピー」な表現も忠実に訳しています。
2023年10月10日に日本でレビュー済み
当方は男、すでにそれなりの年齢ですが、かなり前に買ったままツン読にしてあった本書『赤毛のアン』をようやく読みおえました。読むのが今回はじめてです。
ただ、このレビュー欄では、熱心な読後感想、とりわけ予想される女性読者による熱烈なファンレターにも似た長く書かれた読書感想があまり出ていない、逆にいうとわりと短い感想ばかりなのがちょっと残念です。
少女小説というジャンルに入れられたりするこの『赤毛のアン』には、女性ファンが多そうなので(大学の卒業旅行でプリンス・エドワード島に行った、この小説の大の愛読者である女性と当方若い頃に知り合いになったこともあります)、女性読者はどんなふうにこの物語を読むのか、どういうところが魅力的なのか、なぜ惹かれるのか、その一端でもいいので、ぜひ知りたかったものですから。
女性ファンは、『アン』シリーズ第1作目であるこの『赤毛のアン』(原題:グリーンゲイブルズのアン)をとりわけくりかえしくりかえし読んだというひとが多いようです。
日本には、当方がかつて知り合った女性のように『赤毛のアン』愛読者が多くいて、そればかりか、このモンゴメリーの小説は、作者が生まれ原作の舞台ともなった本国カナダはじめ英語圏の国々よりも日本でこそよく知られ、人気があるといわれています。翻訳が幾種類もあるばかりか、多くの関連本も出版されていますし、高畑勲によってテレビアニメ化されたこともありました。
『赤毛のアン』は、こちらが昔けっこう読んだ田淵由美子さんらのいわゆる乙女チック・ラブコメマンガの原型といわれたりすることがあります。
ただ、似ているところとそうでないところがやはりあります。
ドジッ子で容姿にコンプレックスのある女の子がヒロインというところ(少女マンガでは最初イケてない感じでメガネをかけているけれど、何かの拍子でメガネをとったら美少女だったという”お決まり”のパタンがあります)、そして最初の出会いが最悪だったハンサムな男子と最後はしかし相思になるという”お約束”、このあたりがまあ共通性がありそうです(もちろんこの『アン』シリーズ第1作目では相思とまではいえないけれど、それなりにいい感じにはなっている)。
少女マンガの主人公はやはりいかにも日本人らしく(?)最初自分に自信がなく内気な女の子が多いような気がしますが、アンは、髪の毛の色にコンプレックスをもちつつも、おしゃべりで活潑、気持ちの振幅も激しく、好き嫌いもはっきりしていて、言いたいことを相手に率直に言うタイプの女の子です。いっぽう、空想癖が強く、心のなかで周囲をキラキラワールドにしてしまうほどに自分で創りあげるロマンティックな想像の世界にのめりこんで、現実になすべき大事なことをしばしば忘れる、そういうドジッ子でもある。
それにしても、アンを取り巻く登場人物たちはみんないい人ばかりで、アンは、持ち前の率直で陽性の性格でもって気むずかしい人ふくめだれからも簡単に気に入られるようになるし(知り合う大人たちからきびしく、ときに偏見の目で見られたりふるまわれたりするけれど、のちにすっかり気に入られるという単純な反転パタンがくりかえされる)、最初はたしかによるべないかわいそうな孤児として登場しながらもその後の人生において、読者であるこちらが心のなかで応援するまでもなく、あれよあれよというばかりにいろんな困難がすぐ解決され何ごともうまく行く、そして学業も優秀で、試練や苦難というほどのものもなく、いわゆる”自己実現”(評者自身は好きな言葉ではないのですが)めいたものを半ば以上すんなり達成するというところで、物語としてちょっとどうなのかなと思ってしまうのですが。
いや、むしろ愛読者にはそうしてストレスなく読めるというところがいいのでしょうか。
男性性、それも”有害な男性性”をふりまくような男はもとより、そもそも男の登場人物はほとんど出てこず、ほぼ女だけの世界、いわば女のユートピアになっているというのも女性読者にはどことなく安心できるのでしょうか。
まあ登場人物でいえば、マシューは男でいわば養父の立場ながら家父長的威圧感などまったくなく、それどころか影薄い存在で、しかもそれでいていい味を出しているし、マリラのアンにたいする気持ちがしだいに変化していくところも読みどころではありますが。
険悪の仲だったギルバートと最後仲直りしていい関係になるというこれもある意味長い期間をかけての関係の反転パタンともいえます。そもそも仲直りにいたるまでにもアンは、ギルバートのことを表面的には無視していても強く意識していて、思わず「ギ…」と名前が口に出かかることがしばしばありました。のちに「アン」続篇でふたりは紆余曲折の末結婚ということになるようです。
ともあれ、この第1作目の最後で、アンはずいぶん精神的にも成長して優等生っぽくなり、それなりに落ち着きのある女の子になっているのはたしかです。
いっぽうで、物語最後のほうのエピソードでは、演芸会の会場で出会った「ピンクのドレスの婦人」について、「親切でいい人だけど、背が低くて肥っていて、体つきがてんでなってなかったわ」とかつては自分の赤毛のことがあったのにいまでは容姿差別(ルッキズム)的(?)なことばを洩らすアンにもなっています。
また、やはり最後のほうになって、少女マンガ的お約束にも似て、頭もよく親切でイケメンのギルバートが物語のなかで、そしてまたアンのなかで存在感を増しはじめるのですが、それにたいして”腹心の友”ダイアナのほうはなにやら影薄い存在になっていくのが残念で、ギルバートよりもむしろダイアナこそが、アンとともに成長し、互いに切磋琢磨しあい高めあう、そしてそれによってさらに友情を深めていく心の友にして良きライバルのような、アンと対等の存在になってほしかったと思うばかりです。
まあ物語上、アンとの対比のためにも、美人でおとなしくキャリアなど求めない女の子らしい女の子の存在が必要だったのでしょうけれど。また、こうしてダイアナがいかにも従来の〈女の子らしさ〉の規範にかなう女の子であるとして、アンはアンでまた〈女の子らしさ〉の規範を攪乱する〈おてんば〉というまさにその点で別のよくある〈女の子らしさ〉のタイプをアンは体現しているのかもしれませんが。
当方とすれば、ダイアナがアンとの関係でその”腹心の友”としてなくてはならぬ存在感を物語最後まで失わずにいれば、多くの女性読者はどう思っているのかわかりませんが、正直いってギルバートなんかいらない、といいたいくらいです(笑)。作者としては、ロマンスを予感させる、ほんの少し胸キュン的なところも入れたかったのかもしれませんが…
さて、この第1作のあと、さらに続篇が何作もあります。読むべきか否か。
わたし自身は、過剰でうるさいと言われたりする、小説のなかの自然描写や風景描写、とりわけさまざまな木や花など植物への言及やその描写がわりと好きなんですが。
また、同じく小説で話題にされている食べ物や飲み物がなんともおいしそうで、どんなものなのでしょうね。訳者による注釈もつけられている、そういう生活上の細部や衣服などのアイテム(例の当時流行のパフスリーブなど)を、読んでいてこちらが想像をめぐらし楽しめるところがこの小説特有の魅力(のひとつ)としてあるのかもしれません。
ただ、このレビュー欄では、熱心な読後感想、とりわけ予想される女性読者による熱烈なファンレターにも似た長く書かれた読書感想があまり出ていない、逆にいうとわりと短い感想ばかりなのがちょっと残念です。
少女小説というジャンルに入れられたりするこの『赤毛のアン』には、女性ファンが多そうなので(大学の卒業旅行でプリンス・エドワード島に行った、この小説の大の愛読者である女性と当方若い頃に知り合いになったこともあります)、女性読者はどんなふうにこの物語を読むのか、どういうところが魅力的なのか、なぜ惹かれるのか、その一端でもいいので、ぜひ知りたかったものですから。
女性ファンは、『アン』シリーズ第1作目であるこの『赤毛のアン』(原題:グリーンゲイブルズのアン)をとりわけくりかえしくりかえし読んだというひとが多いようです。
日本には、当方がかつて知り合った女性のように『赤毛のアン』愛読者が多くいて、そればかりか、このモンゴメリーの小説は、作者が生まれ原作の舞台ともなった本国カナダはじめ英語圏の国々よりも日本でこそよく知られ、人気があるといわれています。翻訳が幾種類もあるばかりか、多くの関連本も出版されていますし、高畑勲によってテレビアニメ化されたこともありました。
『赤毛のアン』は、こちらが昔けっこう読んだ田淵由美子さんらのいわゆる乙女チック・ラブコメマンガの原型といわれたりすることがあります。
ただ、似ているところとそうでないところがやはりあります。
ドジッ子で容姿にコンプレックスのある女の子がヒロインというところ(少女マンガでは最初イケてない感じでメガネをかけているけれど、何かの拍子でメガネをとったら美少女だったという”お決まり”のパタンがあります)、そして最初の出会いが最悪だったハンサムな男子と最後はしかし相思になるという”お約束”、このあたりがまあ共通性がありそうです(もちろんこの『アン』シリーズ第1作目では相思とまではいえないけれど、それなりにいい感じにはなっている)。
少女マンガの主人公はやはりいかにも日本人らしく(?)最初自分に自信がなく内気な女の子が多いような気がしますが、アンは、髪の毛の色にコンプレックスをもちつつも、おしゃべりで活潑、気持ちの振幅も激しく、好き嫌いもはっきりしていて、言いたいことを相手に率直に言うタイプの女の子です。いっぽう、空想癖が強く、心のなかで周囲をキラキラワールドにしてしまうほどに自分で創りあげるロマンティックな想像の世界にのめりこんで、現実になすべき大事なことをしばしば忘れる、そういうドジッ子でもある。
それにしても、アンを取り巻く登場人物たちはみんないい人ばかりで、アンは、持ち前の率直で陽性の性格でもって気むずかしい人ふくめだれからも簡単に気に入られるようになるし(知り合う大人たちからきびしく、ときに偏見の目で見られたりふるまわれたりするけれど、のちにすっかり気に入られるという単純な反転パタンがくりかえされる)、最初はたしかによるべないかわいそうな孤児として登場しながらもその後の人生において、読者であるこちらが心のなかで応援するまでもなく、あれよあれよというばかりにいろんな困難がすぐ解決され何ごともうまく行く、そして学業も優秀で、試練や苦難というほどのものもなく、いわゆる”自己実現”(評者自身は好きな言葉ではないのですが)めいたものを半ば以上すんなり達成するというところで、物語としてちょっとどうなのかなと思ってしまうのですが。
いや、むしろ愛読者にはそうしてストレスなく読めるというところがいいのでしょうか。
男性性、それも”有害な男性性”をふりまくような男はもとより、そもそも男の登場人物はほとんど出てこず、ほぼ女だけの世界、いわば女のユートピアになっているというのも女性読者にはどことなく安心できるのでしょうか。
まあ登場人物でいえば、マシューは男でいわば養父の立場ながら家父長的威圧感などまったくなく、それどころか影薄い存在で、しかもそれでいていい味を出しているし、マリラのアンにたいする気持ちがしだいに変化していくところも読みどころではありますが。
険悪の仲だったギルバートと最後仲直りしていい関係になるというこれもある意味長い期間をかけての関係の反転パタンともいえます。そもそも仲直りにいたるまでにもアンは、ギルバートのことを表面的には無視していても強く意識していて、思わず「ギ…」と名前が口に出かかることがしばしばありました。のちに「アン」続篇でふたりは紆余曲折の末結婚ということになるようです。
ともあれ、この第1作目の最後で、アンはずいぶん精神的にも成長して優等生っぽくなり、それなりに落ち着きのある女の子になっているのはたしかです。
いっぽうで、物語最後のほうのエピソードでは、演芸会の会場で出会った「ピンクのドレスの婦人」について、「親切でいい人だけど、背が低くて肥っていて、体つきがてんでなってなかったわ」とかつては自分の赤毛のことがあったのにいまでは容姿差別(ルッキズム)的(?)なことばを洩らすアンにもなっています。
また、やはり最後のほうになって、少女マンガ的お約束にも似て、頭もよく親切でイケメンのギルバートが物語のなかで、そしてまたアンのなかで存在感を増しはじめるのですが、それにたいして”腹心の友”ダイアナのほうはなにやら影薄い存在になっていくのが残念で、ギルバートよりもむしろダイアナこそが、アンとともに成長し、互いに切磋琢磨しあい高めあう、そしてそれによってさらに友情を深めていく心の友にして良きライバルのような、アンと対等の存在になってほしかったと思うばかりです。
まあ物語上、アンとの対比のためにも、美人でおとなしくキャリアなど求めない女の子らしい女の子の存在が必要だったのでしょうけれど。また、こうしてダイアナがいかにも従来の〈女の子らしさ〉の規範にかなう女の子であるとして、アンはアンでまた〈女の子らしさ〉の規範を攪乱する〈おてんば〉というまさにその点で別のよくある〈女の子らしさ〉のタイプをアンは体現しているのかもしれませんが。
当方とすれば、ダイアナがアンとの関係でその”腹心の友”としてなくてはならぬ存在感を物語最後まで失わずにいれば、多くの女性読者はどう思っているのかわかりませんが、正直いってギルバートなんかいらない、といいたいくらいです(笑)。作者としては、ロマンスを予感させる、ほんの少し胸キュン的なところも入れたかったのかもしれませんが…
さて、この第1作のあと、さらに続篇が何作もあります。読むべきか否か。
わたし自身は、過剰でうるさいと言われたりする、小説のなかの自然描写や風景描写、とりわけさまざまな木や花など植物への言及やその描写がわりと好きなんですが。
また、同じく小説で話題にされている食べ物や飲み物がなんともおいしそうで、どんなものなのでしょうね。訳者による注釈もつけられている、そういう生活上の細部や衣服などのアイテム(例の当時流行のパフスリーブなど)を、読んでいてこちらが想像をめぐらし楽しめるところがこの小説特有の魅力(のひとつ)としてあるのかもしれません。
2022年10月19日に日本でレビュー済み
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アリスとモモを読んで、まだアンに出会っていないことに気づいた。そして読み始めるとアンの饒舌さ小賢しさに最初戸惑いながらも、様々な事件の中でマシューと同じ気持ちでアンを見つめる自分に気づく。なるほどこれは誰が読んでもいい大人の文学だった。気難しそうな養母マリルの持つ思案の深さとユーモア、そしてアンに対して深まる愛情が胸を打つ。松本侑子氏の翻訳はキラキラとしているだけでなく、深い教養と言葉の綾をつづら折っている。中訳も楽しく読んでしまった。読めて良かった。
2022年4月5日に日本でレビュー済み
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私の主治医、職場の先輩の愛蔵書だったので、
もう一度、昔、夢中でエッセイを読んだ松本侑子さん訳で
読み直しました。松本侑子さん訳は、論文さながらの詳細な説明が巻末にあります。まさに文学です。
孤児で、癇癪持ちで空想好きなアンが
養父母のマニラやマシューと共に立派に成長していく姿に感動します。
まだまだ途中まででこれからが楽しみです。
テレビドラマだけしか知らないと大損します。
もう一度、昔、夢中でエッセイを読んだ松本侑子さん訳で
読み直しました。松本侑子さん訳は、論文さながらの詳細な説明が巻末にあります。まさに文学です。
孤児で、癇癪持ちで空想好きなアンが
養父母のマニラやマシューと共に立派に成長していく姿に感動します。
まだまだ途中まででこれからが楽しみです。
テレビドラマだけしか知らないと大損します。
2021年8月21日に日本でレビュー済み
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後ろに解説がついていてためになった。
昔読んだのに比べると,字が若干大きくて読みやすいと思った。
昔読んだのに比べると,字が若干大きくて読みやすいと思った。
2021年4月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
松本侑子さんの素晴らしい翻訳!!
大切にしたい一冊です。
大切にしたい一冊です。